ゆる~くナチュラルらいふ&ロハスちっくを目指して*静岡市ATRと石けん教室*

【あんず工房】花子の手まり唄

あんず工房花子の手まり唄作製直後

『花子の手まり唄』これは彩先生が“ハンドメイド石けん協会・HSA主催第2回デザインソープコンテスト”で優秀賞を受賞した作品です。
春らしい和菓子石けんをリクエストをお願いして教えて頂きました♪

道成寺という歌舞伎の ある場面をイメージしたそうです。
「花の他には松がばかり 暮れ染めて鐘や 響きくらむ」

彩先生が面白おかしく「安珍清姫伝説」を紙芝居を使ってお話しをしてくださいました。
長唄「京鹿子娘道成寺」も続けて♪
今の人に例えて面白かったです♡
あんず工房花子の手まり唄安珍・清姫伝説
お話しを聞いた後、実習にはいりました。
あんず工房花子の手まり唄餡子と型 中身の餡子と桜の花びらの型です♪
この中に更に「獺祭の酒粕」の抽出液も入って贅沢です♡
あんず工房花子の手まり唄餡子 餡子はさらし餡で色付けされていて桜葉パウダーで香りも付けてあります。

のんびり作っていたら時間が押してしまい、2個は自宅で作りました…。┐( -“-)┌
あんず工房花子の手まり唄出来上がり
後日談:桜の型(セリアで以前販売されていた)を持っていたのですが、引っ越しの際に捨ててしまいました。セリアに問い合わせした所、廃盤商品との事でまだ残っているセリアまで車で1時間掛けて購入しました。((*>艸<)[☆)

安珍・清姫伝説 長唄京鹿子娘道成寺  *** wikipedia より引用 ***


安珍・清姫伝説(あんちんきよひめでんせつ)とは、紀州道成寺にまつわる伝説のこと。
思いを寄せた僧の安珍に裏切られた少女の清姫が激怒のあまり蛇に変化し、道成寺で鐘ごと安珍を焼き殺すことを内容としている。

伝説の内容
安珍清姫の伝説については、説話として古く平安時代の『大日本国法華験記』(『法華験記』)、『今昔物語集』に現れる。
さらに古くは『古事記』の本牟智和気王説話に出雲の肥河における蛇女との婚礼の話がある。
内容については伝承によって相違がある。

【安珍・清姫のなれそめ】
時は醍醐天皇の御代、延長6年(928年)夏の頃である。奥州白河より熊野に参詣に来た僧がいた。
この僧(安珍)は大変な美形であった。
紀伊国牟婁郡(現在の和歌山県田辺市中辺路:熊野街道沿い)真砂の庄司清次の娘(清姫)は宿を借りた安珍を見て一目惚れ、女だてらに夜這いをかけて迫る。
安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困る、帰りにはきっと立ち寄るからと騙して、参拝後は立ち寄ることなくさっさと行ってしまった。

【清姫の怒り】
騙されたことを知った清姫は怒り、裸足で追跡、道成寺までの道の途中(上野の里)で追い付く。
安珍は再会を喜ぶどころか別人だと嘘に嘘を重ね、更には熊野権現に助けを求め清姫を金縛りにした隙に逃げ出そうとする始末である。
ここに至り清姫の怒りは天を衝き、遂に蛇身に化け安珍を追跡する。

【安珍の最期】
日高川を渡り道成寺に逃げ込んだ安珍を追うものは、火を吹きつつ川を自力で渡る蛇の姿である。
渡し守に「追っ手を渡さないでくれ」と頼んでもこれでは無意味であった。
よんどころなく、梵鐘を下ろしてもらいその中に逃げ込む安珍。
しかし清姫は許さず鐘に巻き付く。因果応報、哀れ安珍は鐘の中で焼き殺されてしまうのであった。
安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水する。

伝承内容の相違
いわゆる安珍清姫伝説の内容はおおよそ以上のようなものであるが、古い文献などが伝える伝承の内容は、これとは相違する点がある。
『大日本国法華験記』巻下第百二十九「紀伊国牟婁郡悪女」、『今昔物語集』巻第十四第三「紀伊ノ国道成寺ノ僧写法華救蛇語」では、少女の代わりに若い寡婦が登場する。
また、宿泊するのは老若二人の僧である(懸想されるのは若い僧)。
若い僧に逃げられた後怒った寡婦は寝所で死に、その寝所から体長五尋の毒蛇が現れ、僧を追って熊野街道を行く。
道成寺で僧を焼き殺す点は一致しているが、宿泊した僧が二人とも焼かれる。
『道成寺縁起絵巻』 では、主人公の女は真砂の清次の娘ではなく「娵」(よめ)である。
いずれにせよ安珍・清姫の名はまだ見られず、安珍の名の初出は『元亨釈書』、清姫の名の初出は浄瑠璃『道成寺現在蛇鱗』(寛保2年〈1742年〉初演)とされる。

【後日談】
安珍と共に鐘を焼かれた道成寺であるが、四百年ほど経った正平14年(1359年)の春、鐘を再興することにした。
二度目の鐘が完成した後、女人禁制の鐘供養をしたところ、一人の白拍子(実は清姫の怨霊)が現れて鐘供養を妨害した。
白拍子は一瞬にして蛇へ姿を変えて鐘を引きずり降ろし、その中へと消えたのである。
清姫の怨霊を恐れた僧たちが一心に祈念したところ、ようやく鐘は鐘楼に上がった。しかし清姫の怨念のためか、新しくできたこの鐘は音が良くない上、付近に災害や疫病が続いたため、山の中へと捨てられた。
さらに二百年ほど後の天正年間。
豊臣秀吉による根来攻め(紀州征伐)が行われた際、秀吉の家臣仙石秀久が山中でこの鐘を見つけ、合戦の合図にこの鐘の音を用い、そのまま京都へ鐘を持ち帰り、清姫の怨念を解くため、顕本法華宗の総本山である妙満寺に鐘を納めた。
鳥山石燕の妖怪画集『今昔百鬼拾遺』にも「道成寺鐘」と題し、かつて道成寺にあった件の鐘が、石燕の時代には妙満寺に納められていることが述べられている。

毎年春には清姫の霊を慰めるため、鐘供養が行われている。
道成寺関連の作品を演じる芸能関係者が舞台安全の祈願に訪れていた時代もあり、芸道精進を祈願して寺を訪ねる芸能関係者も多い。

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